会社の歴史

【1973年設立 設立約半世紀の老舗】

1973年初代 橋本賢三から始まった協和設備。

バブルやバブル崩壊の最中、年商数億円をたたきあげた。

やがて日本は平成不況と言う大不景気時代の幕開けとなった。

そして初代の老衰と共に、二代目は息子の橋本好造へと引き継がれることとなる。

そして建築業界も一気に低迷していき当社も大きな打撃を受けていた。
ひどいときには3ヶ月で3日しか仕事がないときもあった。
好景気での蓄えもあり仕事がなくても社員の給料はなんとか払うことはできてたもののそのダメージは甚大であった。

【兄弟爆誕】

そして大不況の中、初代の孫であり2代目の甥でもある兄、橋本武大と弟、橋本学による兄弟が千葉のある会社から依頼された仕事で大きく名を馳せることとなる。

さすが兄弟なだけあって息が合い、仕事の出来は「早い、キレイ、確実」と多大なる評価をいただいた。
その兄弟の活躍もあって当社は不景気で受けた傷を少しずつ回復していった。

それからと言うもの兄弟はいつしか橋本ブラザーズと異名をつけられ、職人の中でもその名は多くの人に知られていく。

それから5年を過ぎた頃、兄弟は息は合うものの仕事に対する考え方が違っていたため大きく対立、三代目の跡目争いへと発展していった。

【スペック】

兄は小さい頃からプラモデルなど説明書なしで組み立てるくらい勘の鋭い男であった。
大柄で腕力も会社の誰よりもあり重量物を持てば筋力よりも関節が先に壊れる程、肉体的精神の強い肉体派。

弟は初代の一番の愛孫でもあり小柄で寡黙、幼い頃からノコギリやカナヅチなどあらゆる道具の使い方を教わり、8歳の頃には自転車の修理や別荘の木々をチェーンソーで伐採さえもこなすようになり、手先の器用さと吸収性は抜群の頭脳派。

【終止符】

この両者の相反する争いに終止符が打たれたのはそれから3年後の兄の退社表明だった。

兄弟の経験年数の差は5年あったが技術とスピードの差は紙一重となるまでに縮み、兄は弟に三代目の座を明け渡すこととなる。

もちろん舎弟の下になどつけない兄は退社していくこととなる。
兄29歳、弟24歳のことだった。

晴れて協和設備三代目継承者は弟の橋本学となった。

【三代目の社員への思い】

若い頃には給料面で悩み狂った3代目だが入社当時は日当¥6,000から始まり給料を上げるため毎日精進したがそれでも上がらない給料で会社に不満さえ感じていた時期もあった。
だがその背景には不況と言う大きな影があったことを知った。
「このまま同じ経営をしてもダメだ」
そう思い、本来は新築や役所の改修工事などメインにやっていたが店舗改修、個人住宅の改修など規模を拡大。
たくさんの会社からのお力添えもあり今では当時の5倍の売上高となった。

給料とは本来、仕事ができるようになったら昇給すると言うのが一般的だが、それでは人参をぶら下げて馬に走らせるようなもの。
三代目はやる気があり頑張っている者には先に昇給させてモチベーションを上げたい先行投資タイプ。
休日出勤や残業などで疲れていても、その分給料をいつもより多くもらったときの頑張ってよかったと思う達成感と高揚感は誰もが一度は経験したことがあるはず、それを先に感じてもらおうと言うのが三代目なのだ。

これが良いか悪いかは分からないが彼はそうゆう性格なのだから仕方ないだろう。